読書メモ - 諸学における命がけの飛躍

2009/07/08

人文系の書籍から少し離れてしまったので,バランスを取るために少し読んでいます。

探究I 柄谷行人 講談社 1992年

デリダを読んだ後だと本当に読みやすい。難解な書物から日本語ネイティブの書物に帰ってきた安心感もあるんだろうけれど,加えて,デリダの問題意識と大きく重なるところがあるように思われて,解説書のように読めるからだとも思う(というと失礼なんだけれども)。

本書は,他者の他者性を問題にした話。コミュニケーションにおける規則はコミュニケートするに先立って存在するのではなく,コミュニケーションが成立した後,事後的に成立する。コミュニケーションが確固とした規則・体系に基づいていない以上,その成立は「命がけの飛躍」である(コミュニケーションの成立を「私」が自ら根拠立てることはできない)という話です。この事後的に規則をでっちあげつつ(それ自体では無意味な)言語をやり取りすることを,本書では,ウィトゲンシュタインを引いて「言語ゲーム」と呼んでいます。で,引用。

科学としての経済学は、言語学と同様に、このような「社会的性格」を無視したところに成立する規則体系の考察からはじめる。これは、マルクスが標的とした古典派経済学であろうと、のちの新古典派であろうと、同じことである。たとえば、新古典派は、各個人が最大限の利益を追求すると仮定し、彼らが競り合う「ゲーム」から、いかにして均衡体系が形成されるかを探究する。だが、われわれのいう「言語ゲーム」は、そのようなゲーム理論と無縁である。また、われわれは、人間(諸個人)を、最大限の利益を追求するものとして仮定することはできない。そのような仮定は、経済活動を規定する「規則」ではなく、市場経済という「行為の仕方」から想定された事後的な規則にほかならない。

[2] 探究I. 柄谷行人. 講談社. 1992年. pp62-63.

おそらく,こうした問題意識(懐疑論)は,学の内部でべったりになっている人にはトンデモに映るはず。引用は,経済学に関する話だけれども,これは法律学を初めとした諸学問にも言えることで,学の学性を動揺させるはずです。

例えば,法律で言うと,殺人罪(刑法199条)が「自然人を殺害することで成立する罪である」といったところで,これはそれ自体規範として何の意味を持たないということになりそうです。それは,人が死ぬような事件の法的取り扱いにおいて,これが殺人罪として取り扱われた後になって初めて,「事後的に」殺人罪の構成要件として構成されることになる。殺人罪の殺人罪性は,刑法199条に内在して書き込まれているのではなく,殺人罪として扱われた事実から事後的に構成される,とかいった具合。

デリダも,『法の力』で似たようなことを言っていて,決定不可能な他者との対峙(他者に向かうこと)においてこそ,正義があるとしていた(ような気がする)。ここで,決定不可能な他者に向かうことというのは,言うまでもなく,本書における「命がけの飛躍」のこと(だろう,多分)。

法の力 ジャック・デリダ 法政大学出版局 1999年

法律学にしても経済学にしても哲学にしても,あたしゃかなり昔から,「なぜそう言い切れちゃうんだよ」といった疑問が常に付きまとっていたのでした。大学2年くらいになって,積極的にそういった疑問を呈することはあきらめて,「そういうことになっている」と考えるようになってしまったわけだけれども。そもそも,そんな疑問を持たないで,内部でお勉強していれば,幸せだったのかもなーと思ったりもします。

デリダにしても柄谷氏にしても,もう少し早く読んでたら良かった,とか思ってしまった。折り合いの付け方を示してくれている,といった点で。

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