データベースという隠喩 - またはメディアの隠喩としてのデータベース

2008/05/11

こちらの話を読ませていただいて。

「すべてのメディアはコミュニティになる。すべてのコミュニティはメディアになる」と主張してきたのだけれど、この本の内容はまあそういうことである。コミュニティをビジネスとして支えるために、データベースをどう設計し、どう利用するかが重要になるわけで、この本は、その戦略を深く解説する実務書である。

「データベース」という言葉はとても便利なもんで,東浩紀氏にいわゆる「データベース化」のように非常に抽象的・概念的なものから,いわゆる物理設計における「データベース」のように具体的な実装を踏まえたものまで,抽象度のレベルがかなり違います。あたしも,『新・データベースメディア戦略』を読ませてもらったんですけど,ここに言う「データベース」が何を指しているのか,ちょっとよく分かりませんでした。

ここで,「データベースってのは,ほげほげの意味なんだよ!」とかいった,「定義」の問題に解決してしまうと,にっちもさっちもいかなくなってしまいます。というのも,こんなもんは,どうとでも「定義」できてしまうから。「Web 2.0」と同様,こういう言葉はコンサルや分析家によって都合のいいように使われてしまいます。ということで,ここでは,「データベース」なる言葉が何を指し示すのかはともかく,「データベースという現象」あるいは,「データベースという隠喩」について考えてみたいと思います。

「データベース」なるものが,何を喩えているのか。あるいは,「データベースという現象」は何なのか。思いつくところで挙げてみると,こんな感じでしょうか。

  • 集合性(ストレージとしてのデータベース)

  • 検索性(欲しい情報を取り出すことができるものとしてのデータベース)

  • 自律性(「人間」とは別個に存在する「システム」としてのデータベース)

  • 鏡像性(何かの模倣物(写し取ったもの)としてのデータベース)

  • 無機質性(非(理性的)人間としてのデータベース)

下に向かうにつれて,抽象的・比喩的になるように並べてみました。また,適当ですけど,下にあるものが,上の要素に依存していることも表しています(検索性があるということは,集合性もある……みたいな具合に)。

ここで,「メディアとしてのデータベース」というとき,そこにあるのはなんなんでしょう。あたしにはどうも,鏡像性(これはあたしの造語ですが)あたりがクローズアップされているように見えます。ある種の分野にまつわる現象を,「情報」という形にしてそっくりそのまま写し取ったもの,といった感じ。こいつをオープンにして,金儲けしてやろう,というのが前掲書籍のいわゆるところです。

ここからはあたしの独断になってしまうけれども,おそらく,ここでお題になっている「メディアのデータベース戦略」というのは,巷にある物事をどのように捉えるのか,ということとほぼ近い。もちろん,「巷にある物事」というのには,「コミュニケーション」なるものも含みます。そしてまた言うまでもなく,自然の物事をそっくりそのまま写し取るなんてことは,物理的にできないわけですから,それをどのような側面から切り取るのかを「選択」しなくちゃいけません。多分,「戦略」というのは,その選択そのものなわけで,てことは,それってこれまでのメディア戦略と同じなんじゃね?とも思ったり。

あたしゃ思うんですけれど,ユーザのコミュニケーションすらもモデル化してデータベースに取り込むという,ここでの分析は,ちょっと長持ちしないんじゃないかなぁ……と,思ったりします。ネット利用者は,アクター(消費する主体)として振る舞いつつも,同時にオブジェクト(消費される客体)としても機能しているわけですけれど,ここでの分析は,後者に力点が加わりすぎている感じがするからです。

マーケティングとは関係なく,これまでも微妙に考えていたことで,このサイトでも何度か書いているんですけれど,ネットを考える場合,消費者の主体としての側面を無視しちゃいかんのじゃないかなぁ……と思っていたりします。つまり,消費者の実存の問題です。多分,世の中の物事を客体として鏡像化することは,硬直化したシステムを表現するに過ぎない。自己生産的な,あるいは,自己定義的なシステムとしてネットを捉える場合,データベースという隠喩は果たして妥当と言えるんでしょうか……。あたしゃ微妙に疑問に思っていたりします。

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