本日の引用 - 名付けることの根源的暴力性

2008/03/28

なんだかなかなか読み終わらないんですけれど,『グラマトロジーについて』より。

レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読解しているところからの一節です。

実際、名付けるという第一の暴力が存在したのである。名付けること、場合によっては口に出すのが禁じられるであろうような名前を与えること、これが言語[ランガージュ]の根源的暴力であって、これは差異の中に絶対的な呼びかけ符号を書き込み、それをクラス分けし、宙吊りにする。独自的なものを体系の中で思惟すること、それを体系に刻み込むこと。これが原=エクリチュールの所作である。つまり、原=暴力であり、固有なるものの、絶対的近接性の、〈自己への現前〉の、喪失であって、実際、けっして生じなかったものの喪失、けっして与えられはしなかったが夢みられ、いつもすでに二重化され繰返され、自己自身の消失においてしか出現することしかできなかった一つの〈自己への現前〉の喪失なのだ。

『グラマトロジーについて 上』(ジャック・デリダ,現代思潮新社,1996年,p227)

最近,「言葉で指し示すことの政治性」みたいなことを書いたんですけれど,大体同じようなことを言いたかったのでした。本書のことはまったく念頭に置いてなかったんですけど,いつの間にか感染してました。

要するに,「固有のもの」「独自的なもの」は,口に出したらおしめぇよ,みたいな話なんだと思います。ここら辺を責任概念と絡めたのが『死を与える』なわけで,アブラハムの責任が「アブラハムに固有かつ独自の責任」であるためには,口に出しては(= 言葉にしては)いけない。愛息子のイサクにすら打ち明けられない(神(他者)とのやり取り以外にない),といった話につながる……と。

デリダというと,脱構築の人ってなイメージが先行しがちだけれども,本来的な問題意識は,パロールとエクリチュールの二項対立と共犯関係なんてもんではなくて,上のようなところにあるんじゃないかと思ったりします。「私だけのもの」を勝手に名指して(命名して),手前勝手な「体系」に組み込んでしまうこと暴力性。

アルジェリアで生まれたフランス人,のようなマイノリティが採りうる「戦略」として脱構築はある。批評家と対峙する「括られる側」の戦略としてもしかり……とか,云々。

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